聖天信仰の広まり

 当地域での聖天信仰は、明治20年頃、大先達・佐々木竜肝氏が、現在の徳島市立一宮小学校の駐車場辺りにあった自邸に、歓喜天像をお祀りしたことに始まります。やがて、人々の信仰心を集めるようになり、「清済組講社」と呼ばれる講となりました。佐々木氏にまつわる話として、毎年年末になると、同氏は法力を用いて香川県の八栗寺まで飛んでいき、新年のお札を受けて、信者達に授けたとの逸話が伝わります。
 佐々木氏が大正2年に死去すると、講は、隣村である入田村の長尾氏が先導するようになります。しかし、数年後、長尾氏が亡くなると、お聖天さまをお祀りできる設備がないことから、御神体は石井町の蓮光寺に移されます。
 その後、当時の名東・名西・勝浦郡の信者達が話し合い、お聖天さまをお祀りする殿堂を建立することとなりました。そこで座主に推挙されたのが、清水栄覚でした。

初代住職 清水栄覚

信者様より奉納された栄覚の肖像画

 清水栄覚は、明治16年、現在の徳島市一宮町で、小作農家の長男として生を受けました。栄覚は幼少期より敬神崇仏の心の深い少年でした。当時、一宮で大先達として聖天信仰を伝道していた佐々木竜肝氏に師事し、その奥義を極めます。

 明治37年、栄覚が21歳のとき、日露戦争が勃発します。栄覚は召集され、乃木将軍率いる第3軍(旅順攻囲軍)に配属されます。激戦となった203高地の戦いで、所属した部隊は幾度も全滅(※)の悲運に遭いますが、栄覚は敵の銃弾を数発受けたものの、命に別状なく生還しました。
(※)兵力を大きく消耗し、組織的戦闘が不能となること。

 大正2年、佐々木氏が亡くなり、永く人々の信仰を集めたお聖天さまの御神体は徳島県石井町の蓮光寺に移されます。その後、当時の名東・名西・勝浦郡の有志が話し合い、「法力が著しい」と講中で一目置かれていた栄覚を座主とし、殿堂を建立することとなりました。栄覚自身これに要する元手は持ち合わせていませんでしたが、地元の資産家から山野の寄進を受け、建造に係る資材一切も多くの信者からの寄進によって賄われました。そして、全国でも有数のお聖天さまの寺院である香川県の八栗寺より御神体を分祀し、大正14年5月15日、稚児行列が練り歩かれ、持正院は開山しました。また、昭和8年4月には「向拝」が完成し、同月26日に挙行された上棟式には、栄覚を筆頭に、先達の方々50名以上が参座しました。

 栄覚の行者力によって「難しいと言われた病が治った」、「憑き物が払われた」など、様々な願い事が成就したことで多くの方が信心するようになり、なかには、元は信心がなかったものの、後に先達になった方もいらっしゃいます。そうした栄覚の行者力によりお聖天様の“おかげ”を賜ろうと持正院には県内各地からたくさんの方がお参りに訪れるようになり、年に3度行われる大護摩には、本堂の広間に人が収まり切らず、縁側や伝い廊下にまで人であふれました。

 このような話も伝わっています。あるとき信者達がバスを貸し切って八栗寺へ参拝に行きました。無事持正院まで帰ってきて、さあ帰ろうというときに一人の女性が「八栗山に傘を忘れた。」と言い出しました。当時、傘は高級品で今のように簡単に買い替えることもできません。すると栄覚は「ちょっと待っといて。」と言って本堂に入っていきました。その数分後、本堂から出てくるとおもむろに「あなたの傘はこれで?」と傘を見せます。それはまさに女性が八栗山で忘れた傘でした。皆はたいへん驚いたといいます。ほかにも、「宙に浮いた」という話など数々の逸話が語り継がれています。

 長きにわたり、国家の安寧と信者の幸福を祈願し続けた栄覚は、昭和36年、天に召されました。地位や名誉に関心のなかった栄覚は、16階級ある僧侶の位のなかで、下から3番目の「大律師」でした。死後、総本山醍醐寺から追号として1階級上の「権小僧都」の称号が送られ、数年後、信者様方によって顕彰する石碑が境内に建てられました。 皆様もご来山の際には本堂にご参拝ののち、碑にも併せてお参りください。

 当院は、現在も「お聖天さまの祈祷寺」として、一意専心に天尊を信仰した先人の志を現代に引き継いでいます。