持正院の歴史と縁起をご紹介します

太閤 秀吉公とお聖天さん

 天下人・豊臣秀吉は、お聖天さん(大聖歓喜天)の熱心な信者でした。当院の本山である京都市伏見区の醍醐寺にも、秀吉が寄進したお聖天さんの御像がお祀りされています。

 秀吉は、天正13年(1585年)、天下統一の布石として四国平定を行いました。阿波の国(現在の徳島県)に総大将として弟の秀長を遣わせ、現在の徳島市一宮町・入田町付近で、長宗我部氏が占拠していた徳島県内最大の山城、一宮城をめぐる戦いが起こりました。秀長は、5万の兵で鮎喰川を挟んで向かいの辰ヶ山(標高197m)に陣を張り、一宮城(標高144.3m)目掛けて大筒を打ち込んだと伝わります。戦いは、豊臣方が一宮城の貯水池を破壊したことで決し、また、一宮城が落城したことで、四国をめぐる戦いの形勢は豊臣方に大きく傾きました。
 秀吉は自らが治めた地域にお聖天さんをお祀りしたといわれています。一説には、一宮城の城下町にも、これが契機となり聖天信仰が根付いたといわれます。そして時は流れ、大正時代、その一宮城の登山口から西に200mほどの場所に、お聖天さまを御本尊として、当院が建立されることになります。

初代住職 清水栄覚

             信者様より奉納された栄覚の肖像画

 当院の初代住職は清水栄覚(明治13年~昭和36年)です。明治13年、現在の徳島市一宮町で、伊八(のちの栄覚)は小作農家の長男として生を受けました。栄覚は幼少期より敬神崇仏の心の深い少年でした。当時、一宮で大先達として聖天信仰を伝道していた方に師事し、その奥義を極めます。

 明治37年、栄覚が24歳のとき、日露戦争が勃発します。栄覚は召集され乃木将軍率いる第3軍(旅順攻囲軍)に配属されます。激戦となった203高地の戦いで、所属した部隊は幾度も全滅(※)の悲運に遭いますが、栄覚は敵の銃弾を数発受けたものの命に別状なく生還を果たしました。
(※)兵力を大きく消耗し、組織的戦闘が不可能となること。

 大正2年、大先達の方が亡くなり、永く人々の信仰を集めた聖天さんの御神体は徳島県石井町の蓮光寺に移されます。その後、当時の名東・名西・勝浦郡の有志が話し合い、栄覚を座主として殿堂を建立することとなりました。栄覚自身これに要する元手は持ち合わせていませんでしたが、地元の資産家から山野の寄進を受け、建造に係る資材一切も多くの信者からの寄進によって賄われました。全国でも有数のお聖天さまの寺院である香川県の八栗寺より御神体を分祀し、大正14年5月15日、稚児行列が練り歩かれ、持正院は開山しました。

 もとは信心がなかった人も、栄覚の行者力によって「難しいと言われた病が治った」、「憑き物が払われた」など様々なお願い事が成就したことで多くの方が信心するようになり、のちに先達になった方もいます。そうした栄覚の行者力によりお聖天さまの“おかげ”を賜ろうと持正院には県内各地からたくさんの方がお参りに訪れるようになり、広間に収まりきらず、縁側が伝い廊下にまで人があふれました。

 このような話も伝わっています。あるとき信者たちがバスを貸し切って八栗寺へ参拝に行きました。無事持正院まで帰ってきて、さあ帰ろうというときに一人の女性が「八栗山に傘を忘れた。」と言い出しました。当時、傘は高級品で今のように簡単に買い替えることもできません。すると栄覚は「ちょっと待っといて。」と言って本堂に入っていきました。その数分後、本堂から出てくるとおもむろに「あなたの傘はこれで?」と傘を見せます。それはまさに女性が八栗山で忘れた傘でした。皆はたいへん驚いたといいます。ほかにも、「宙に浮いた」という話など数々の逸話が語り継がれています。

 長きにわたり、国家の安寧と信者の幸福を祈願し続けた栄覚は、昭和36年、天に召されました。地位や名誉に関心のなかった栄覚は、終世、僧位が最も低い「大律師」のままでした。死後、総本山醍醐寺から追号として一階級上の「権小僧都」の称号が送られ、数年後、信者様方によって顕彰する石碑が境内に建てられました。 どうぞ、みなさまもご来山の際には本堂にご参拝ののち、碑にも併せてお参りください。

 当院は今もお聖天さんの祈祷寺として、一意専心に天尊を信仰した先人の志を現代に引き継いでいます。